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代表者プロフィール

代表者プロフィール

佐野 正治(さの しょうじ)

執務室にて

資格

社会保険労務士(登録番号 第13100177号)

特定社会保険労務士証票付記

高度年金・将来設計コンサルタント

医療労務コンサルタント

生年 昭和24年

出身 秋田県横手市

略歴

昭和50年3月早稲田大学商学部卒業

同年4月 信越化学工業㈱入社

平成26年12月 同社に40年間勤務の後、満期定年を迎える

平成27年1月 現住所に佐野社労士事務所を開業、現在に至る

所属等

・早稲田大学社労士稲門会幹事

・千葉県社会保険労務士政治連盟副会長

・全国社会保険労務士会連合会労働相談員

・千葉県社会保険労務士政治連盟総務委員会委員長

・千葉県社会保険労務士会船橋支部所属

・同上労働条件審査推進委員

・千葉県社会保険労務士会労働紛争あっせん委員

・富里市年金相談員

・白井市労働・年金相談員

・佐倉市年金相談員

ごあいさつ

母校の年金と労働
 問題相談会スナップ

当事務所代表、佐野正治でございます。

 社会保険労務士開業に至るまでのこれまでの当方の遅々とした歩みや、長い会社員生活の紆余曲折や仕事に対する熱意等について書いてみたいと思います。

生立ちについて
 昭和24年10月20日、現在の秋田県横手市に5人兄弟の次男として生を享けました。終戦が昭和20年8月ですから、当時は未だ終戦から4年しか経っていない極めて貧しい混沌とした時代であり、本当に食うや食わずの時代でした。戦争中は国の政策として、「産めよ増やせよ」の時代だったそうです。当時としては5人兄弟はチョット多いかなと言う程度でした。当方が今でも自分の母親を偉かったと思うのは、男の子ばかり5人生んで、尚且つ、1人も欠けることなく育て上げたことです。現在も5人全員健在で、長男は横浜地裁に長らく勤務した後、40代中盤に秋田在住の親の面倒を見るために帰郷し秋田県横手市に在住している以外、他の兄弟4人全員が関東近県に居住しております。

 最近ではそもそも結婚しない男女がふえており、このままでは日本民族は破滅するのではと本気で心配しているのは、あながち当方だけでは無いと思います。最近合計特殊出生率と言う言葉を新聞等でよく目にすると思います。これは15歳から49歳までの女性が一生の間に産む子供の数を表しております。この計算の分母には、生涯独身の女性や子供を全く生まない女性も含まれております。当方が生まれた昭和24年ころにおける当該数値は、日本が4.5、韓国が5.5程度と圧倒的に高く、それに続くアメリカが3.0~3.5、フランスが2.7程度であったそうです。日本の当該値は、平成17年の1.26を底に徐々に回復傾向にあり、平成27年には漸く1.46(対前年+0.04)まで回復しましたが、平成28年度は1.44と対前年-0.02と再度低下してしまいました。未だ人口減少を食い止めるほどには至っておりません。それどころか、このままいくと2040年には1を切る可能性があると懸念されています。平成26年の諸外国の値は、韓国が1.21、アメリカが1.86、フランスが2.01と全体的に低下して尚且つ、逆転現象を示しております。統計的には今一つ信頼性が低いのですが、中国の沿岸部や台湾ではもっと低いとも言われております。

 昔は「子は鎹(かすがい)」と言ったそうです。今日「鎹」と言う言葉の意味を知っている方は、おそらく相当の高齢者か博識な方のみと思われます。試しに辞書等で検索してみると、「鎹」とは「材木と材木をつなぎ合わせるために使用される、両端の尖ったコの字型の大釘」とか、「戸締りの掛け金」と出てきます。即ち、女性に経済力がなかった時代には、夫婦が不仲となり別れたいと思っても、子供がいるので別れられずにそのままずるずると結婚生活を続けざるを得なかったと言うわけです。ところが最近の奥様方は、旦那との中が疎遠になれば、子供がいようがいまいが直ぐに家を出て行ってしまうようですから、今日においてはこの言葉自体が最早、死語若しくは過去の遺物となってしまった感があります。それはさておき、これからは、国の安定的成長と発展のためには、ある程度の出生率の維持は不可欠です。少子高齢化が大きな社会問題になってきております。総務省の統計等によりますと、日本は1970年に高齢化社会に、1994年に高齢社会に、2007年に超高齢社会に突入したそうです。日本の高齢化率は2005年に20%と世界一となり、2050年にはほぼ40%までに達する見込みであり、堂々の世界一の地位を維持し続ける見込みだそうです。

65歳以上人口が7%を超えると「高齢化社会」
WHO(世界保健機構)や国連の定義・・・日本は既に「超超高齢社会」
多くの先進国では、65歳以上の人を高齢者という(統一的な定義はない)
②高齢化率とは、総人口に占める65歳以上の人口の比率・・・2015年の統計値では、高齢化率の世界のトップ3は、日本(26.7%…2018年実績は28.1%)、イタリア(22.4%)、スウェーデン(19.9%)です。 

WHOや国連の定義+新定義)

 

 

総人口に占める高齢者率

日本の到来年

経過年数

高齢化社会

7%

1970

高齢社会

14%

1994

24

超高齢社会

21%

2007

13

超超高齢社会

28%

2018

11

1)高齢化社会から高齢社会となるまでドイツは42年、フランスは114年かかったのに、日本はわずか
24年で到達しており、異常に早かったそうです。人口動態調査によると、高齢化社会に突入した1970の合計特殊出生率が2.13だったのに対し、19941.50と大きく減少しました。2018年には1.42%、2019年には1.36%と更に低下しております。子供が減り続ける中で高齢者人口は増えていったことが、急速に高齢社会へと進んだ原因と考えられます。

2)嘗て経済企画庁長官も務められた堺屋太一氏は、1976年に忙しいお仕事の合間に、「団塊の世代」と題する小説を発表し、一世を風靡致しました。この「団塊の世代」とは、堺屋太一氏の造語と言われております。一般にこの「団塊の世代」とは、1947年から1949年までの3年間に出生した皆さんを指しているようです。因みに1947年生は268万人、1948年も同じく268万人、1949年は270万人、この3年間だけの合計で806万人、現在の日本総人口の約14分の1を占めております。かく言う私もこの団塊の世代の最後の年の生まれです。現在この団塊の世代は70歳代前半に差し掛かっており、かつての高度経済成長期において、日本経済の成長と発展を支えた皆様は、最早そのほとんどが非生産年齢人口として年金生活者になっております。この「団塊の世代」の皆様が、日本の高齢化率を世界に類を見ないほど極端な高率に押し上げていると言えます。通常の人口ピラミッドは、正規分布型の正三角形をしているわけですが、日本の現在の人口ピラミッドは、70歳台の人口構成が異常に膨らんだ形をしており、「つぼ型」或は「ネギ坊主型」をしていると言われております。この傾向はこれからもしばらくは続くものと思われます。

3)内閣府の平成30年版高齢社会白書によると、日本の高齢化率は2018年には既に28.1%に到達しており、2020年には29%…高齢者数は3,619万人となる見込みだそうです。

4)高齢者1人を支える現役世代の人員の推移

 

到達年

高齢者1人を支える現役世代人数

高齢化率

1950

12

5%

2015

2.3

27%

2018

2.15

28.1

2020

2

29%

2065

1.3

38.4%

 上記の数値は、現役世代を15歳以上65歳未満としております。高校進学率はほぼ99%、大学・短大進学率は約60%という現実を加味すると、現役世代は22歳以上65歳未満として数えるべきです。そうすると現実的には、2020年の現役世代は2人で1人の高齢者を支えるのではなく、2人未満で1人を支える、2065年も1.3人で1人を支えるのではなく、1人で1人を支えなければならない時代がすぐそこまで来ていると言えます。

平成30年10月現在の日本の人口推計値(総務省統計局)
①15歳未満・・・・・・・・・・・15,415千人(12.2%)
②生産年齢(15~64歳)人口・・・75,451千人(59.7%)
65歳以上・・・・・・・・・・・35,578千人(28.1%  
    合計             126,444千人

 因みに、国立社会保障・人口問題研究所の推計によると、日本の人口は2010年(平成22年)に1億2,806万人のピークを打った後、2050年には1億人を、2060年には9,000万人を割り込む見込みだそうです。少子高齢化の大波が正にすぐそこまで押し寄せてきていると言えます。

 国民が安心して子を産み、育てられる環境の整備のために国の果たすべき施策や役割は極めて大きいと言えます。特に最近のフランスの出生率が、先進国中最高となっておりますが、これはフランスの子供を持つこと、特に複数の子供を持つことをバック・アップする制度がすぐれているからと言えます。具体的には、①子供が2人以上いれば収入に無関係に、子供が20歳に達する迄家族手当を受給できる。②2~6歳の子供は、親が希望すれば全員幼稚園に入ることが出来る。その他託児所も完備しており、希望者は全員入所できる。③幼稚園から大学までの公立学校の授業料が無料。④女性社員は妊娠前後4か月間の有給休暇を取得できる。⑤企業は2人以上の子供を持つ親に3年間の育児休暇を取得させなければならない。又、休暇中の手当は国から支給され、育児休暇後は育児休暇前の同ポストへの復帰が原則、等。 

子供時代
 以上の様に、戦後の混沌とした時代に生を享けたために、祖母1人を加えた1家8人の生活は今日の日本では想像もつかぬほど苦しいものでした。いかに田舎の農家とは言いながら、辛うじてお米や野菜は手に入りましたが、タンパク質は圧倒的に不足しておりました。子供たちの日課は、常時自宅で飼っている10匹ほどの食用のウサギに食べさせる草の確保と寝屋の掃除をすることでした。因みに冬季に食料が不足した時に、この飼育していたウサギの殆どが家族のお腹の足しになったことは当然のことと言えます。冬季間にウサギを繁殖させて、又翌年飼育することの繰り返しでした。当然の事ながら、農家ですから田畑の手伝いは毎日のようにありました。とにかく眠くて勉強どころではなかったことを覚えております。しかしながら、5人兄弟の上から3人目までは日本育英会の特別奨学金を得て、高校・大学と進むことが出来たのは、大変幸せなことでした。但し、後でも触れますように、当方は高校卒業後、一旦就職しました。

小学生時代の大きな思い出
成功談模型飛行機大会での優勝
 今もそうかもしれませんが、小学校の図画・工作の時間には、模型飛行機を作る時間がありました。当方は父親の血を引いて、図工はかなり得意でした。学校内の模型飛行機大会で選抜して、飛行時間の長いものから3人ほどが県南の模型飛行機大会に参加できました。当日は、秋の航空記念日で秋晴の快晴の空を、航空自衛隊の飛行機が編隊を組んで飛んでいくのが、会場のグラウンドからもはっきりと見えました。出場校数は20校程度だったと思いますが、私たち小学生はAクラスのゴム動力の模型飛行機の部でした。当方の出番は正午少し前で、上昇気流もありかなり飛行コンディションの良い時間でもありました。ゴム動力を目一杯巻いて、上空に投げ上げたところ、飛行時間はいつもの平均を上回る、3分超えの飛行となりました。全ての競技が終えたところで表彰式があり、当方は全く予測もしていなかった大会新記録での優勝を飾ることが出来ました。大会委員長から銀製の優勝トロフィーと賞状、そして新記録を証する記念品をいただきました。

 翌日は月曜日で、朝一番に体育館での校長先生による朝礼がありました。全校生徒が注目する中、校長先生から上記の優勝の報告とトロフィー及び賞状を改めて授与されました。これは私のこれまでの人生でもかなり大きな出来事で、大人になってからもこの事が、たいへん誇らしい事として鮮明に記憶に残っております。それまで校内であまり注目されることのなかった平凡な生徒に対して、俄然全校生徒の注目が集まりだしたことに、本人である当方が一番びっくりしました。それからは、飛ぶ模型飛行機の作り方を伝授してくれという依頼が殺到した事はもちろんながら、その他の勉強についても若干の自信が出来る契機となったことを覚えております。後日談として、模型飛行機大会に引率として同行してくれた数名の先生の中で、かなり気難し屋だった音楽の先生が、模型飛行機の魅力に執り付かれ、その後1年近くも晴れた日はほぼ毎日、放課後のグラウンドで模型のグライダーを飛ばしていたことが記憶に残っております。

失敗談そろばん大会での大敗北
 当時は、学校の授業時間のみならず、放課後に有志の先生がそろばんの指導をしてくれました。今日では電卓の普及で、一部のマニアックな世界を除きそろばんは殆ど人気が亡くなりましたが、当時は算数の能力を伸ばすためには必須の科目として、日本全国どこでも大変盛んでした。なんせ計算機と言うものが何もなかった時代ですから、そろばんの有段者は就職にも大変重宝された時代です。今もそうですが、秋には全国でそろばん大会が開催されておりました。特に当時はかなり注目されており、全国大会の競技風景が、TVで実況中継されていた時代です。

 私の小学校は当時そろばんの強豪校で、2年連続横手市で開催される県南大会で個人の部、総合の部共に優勝して大きな純銀製のトロフィー2個が校長室に飾られておりました。私たちの時に3回目の優勝をすれば、トロフィーは取り切りとなるとのことでした。学校でもかなり熱を入れて出場者の人選を行い、当方も出場者5名の中に加えてもらいました。当時の学校には当然ながら冷房設備はなく、夏休みの昼下がりのうだるような暑さの中、眠い目をこすりながらそろばん大会に備えて特訓が行われました。

 そろばん大会の当日は、横手市の中学校の体育館に机を並べて、小学校の部、中学校の部、高校の部と別れて競技が行われました。小学校の部ではそろばん塾の参加者も含めて30団体ほどが参加しておりました。私達の小学校の参加者は、明らかに会場の熱気に圧倒されておりました。それとそろばん塾からの参加者のレベルの高さには本当にビックリしました。結果は案の定、惨敗で、先輩が苦労して手に入れた純銀製の大きなトロフィー2個共に、他のそろばん塾の団体に持っていかれてしまいました。

 翌日の月曜日登校すると、そろばん大会で惨敗してトロフィー2個共に持っていかれたことが学校中に知れ渡っており、極めて居心地の悪い思いをしました。そのことがまるで昨日のことの様に思い出されます。

 1964年東京オリンピック
  優勝時のアベベ・ビキラ

中学生時代
 中学1~2年生の時は、あまり大きな思い出はありません。但し、中学3年生時に当時の雄物川町中学校の統合化が行われ、それまでの中学校が小学校からと同じ1学年2クラスだけだったのが、5倍の10クラスになりました。学校まで自転車で片道30分ほどかけて通学するようになったことがトピックな話題と言えます。台風の時はもちろんのこと、冬場の雪のシーズンにも自転車で通学しました。雪で自転車の車輪が凍り付き、自転車を担いで自宅に帰ったことも何度もありました。統合中学では、学期毎の試験結果が学年ごとに廊下に張り出されたので、それまでよりは若干勉強に力を入れ始め、順位が1桁台になった時がありました。これがその後コンスタントに勉強する習慣がついた始まりと言えます。

(第1回東京オリンピックの思い出)
 中学生時代の一番大きな思い出は、今から半世紀前、昭和39年(1964年)10月10日(当方が満15歳になる直前)に開催された第1回東京オリンピック(第18回オリンピック)があげられます。真夏の炎天下と秋雨前線を避けて、オリンピックの開催時期としてはかなり遅い10月の開催が決定されたそうです。有色人国家で開催された初めてのオリンピックだったそうです。

 オリンピック開会式の前日は台風の接近で、大粒の雨と強風が吹き付ける大変な悪天候でしたが、開会式当日は一転して雲一つない抜けるような青空が広がりました。開会式の冒頭、團伊玖磨作曲の「オリンピック序曲」他の演奏後、天皇・皇后両陛下がロイヤルボックスに着席し、古関裕而作曲の「オリンピック・マーチ」に乗って、各国選手団の入場が始まりました。入場行進終了後、天皇陛下により東京オリンピックの開会宣言が厳かに宣せられました。そして輝かしい音色のオリンピック・ファンファーレが競技場一杯に響き渡りました。広島県出身で、当時早稲田大学競走部に所属していた坂井義則君が最後の聖火ランナーとして、国立競技場の観覧席の階段を軽やかに駆け上り、はるばるギリシャのオリンピアの地から数多くの聖火ランナーの手を経て受け継がれて来た聖火を、聖火台に点火した姿がまるで昨日のことの様に思い出されます。日本選手団の小野喬主将による選手宣誓の後、国立競技場の青空に向けて、約1万羽の白いハトが一斉に放たれました。その後日本国歌「君が代」の斉唱が行われました。その直後に頃合いを見計らっていた航空自衛隊のブルーインパルス5機の編隊飛行による5輪の輪が、青空に見事に描かれました。この様に見事な五輪のマークが描かれたのは、練習を含めて初めてだったそうです。このブルーインパルスは、当時の航空幕僚長であった源田実の発案で、航空自衛隊の国民へのアピールのために1960年に発足したそうです。ブルーインパルスは開会式当日、埼玉県の入間基地から飛び立ったそうですが、開会式の進行が予定より5分も遅れていたため、出番までの時間調整に苦労したとのエピソードが残っております。

 競技の数多くの名場面がまるで昨日のことの様に思い出されます。その中でもやはり何と言っても大松監督率いる東洋の魔女、日紡貝塚女子バレーが宿敵ロシアを破って金メダルを獲得したことが、当時の日本国民を一番沸かした輝かしい出来事だったんではないでしょうか? 更にオリンピック最終日におけるマラソンで、エチオペアのアベベが前回のローマオリンピックに引き続き、2時間12分11秒のオリンピック新記録で2連続優勝した事が記憶に残っております。尚、オリンピックのマラソンで、2連続優勝したのはアベベが初めてであり、この記録は未だに破られていないそうです。アベベは、東京オリンピックマラソン当日の35日前に虫垂炎の手術を受けたばかりで、体調は未だ万全とは言えない中での快挙の達成だったそうです。因みに、現在のマラソンの世界新記録は、ケニアのデニス・キメットが2014年ベルリンマラソンで出した2時間2分57秒だそうです。近年フルマラソンで世界新記録が頻繁に誕生しており、この時点で、過去10年間で6回の世界新記録が誕生しているそうです。マラソン界の悲願であった、2時間の大台の突破が目の前に迫っていると言えます。

 当初、アベベは東京オリンピックで裸足で走ったと記憶しておりましたが、実際は1960年に開催された前回のローマオリンピックでの出来事だったようです。出身国のエチオピアは貧しくて、靴が買えずに裸足で走ったと思われておりましたが、実際は競技直前に靴が壊れてしかも、同じサイズの靴が無く止むを得ず裸足で走ったのだそうです(注)。普段から3,000メートル級の山野を裸足で走り回っていたためにできた芸当という事のようです(首都のアジスアベバ自体が標高2,355mあり、世界で3番目に高い場所にある首都だそうです)。因みに東京オリンピックの時は、ドイツのPUMA社の靴を履いていたそうです。遠藤幸雄の体操、猪熊功の重量級柔道、三宅義信のウエートリフティング、円谷幸吉の今にも倒れそうになりながらのマラソン銅メダル。挙げたら切がありません。

(注)アベベがローマオリンピックで素足で走った事情については、一般的に上記の通りに伝えられております。当方はこの事実についてもう少し詳しく知りたいと思い調べてみて、次のような事実を発見しました。当時の殆どのエチオピア人は日常生活で裸足で生活していたそうです。普段アベベがマラソンの練習をしている時も、裸足で走っていたそうです。この辺の事情は、アベベがローマオリンピックのマラソンで優勝した直後のインタビューで次のように語っていることからも明らかと思われます。「エチオピアは貧しい国なので乗り物にも事欠いております。ですから、皆どこに行くにも足だけが頼りです。40㎞を走るなんて大した事ではありません」(ローマ大会優勝会見・1960年)。マラソンシューズは一応エチオピアから持参してあったそうです。但し、履きつぶしたためローマの町で足に合う靴を買いに行ったそうです。履いて走ってみると足に合わず、水ぶくれが出来てマラソンで42㎞走り通せるものではなかったそうです。そこで止むを得ず、ローマのアッピア街道を普段通り裸足で走ったというのが真相のようです。この辺の事情は、英国のジャーナリスト・作家として活躍したティム・ジューダが2008年に発行し、2011年8月草思社から翻訳出版された単行本「アベベ・ビキラ」に詳しく紹介されております。

 もう一つのエピソードを紹介したいと思います。マラソンシューズメーカーのオニツカタイガー社(後のアシックス社)は1949年に創業されており、1956年のメルボルンオリンピック時にはマラソンシューズ専業メーカーとして、日本選手にマラソンシューズの提供を行っていたそうです。創業者の鬼塚喜八郎氏が1960年のローマオリンピックにおいて、マラソン競技のゴール地点で、「黒い弾丸」のように先頭を切ってゴールに駆け込んできたのが、当時世界的には全く無名のアベベであったこと、更にそれが裸足であったことを発見して大変ビックリしたそうです。そこで商魂たくましい鬼塚氏は、「よし、この男にわが社の靴を履かして、わが社のマラソンシューズの名前を世界にとどろかせてやろう」と決心して、アベベに接触を試みたそうです。最初アベベは裸足で良いと言ってきかなかったそうです。鬼塚氏は、「次回オリンピックの東京の道路は、ガラスの破片も落ちており危険だから、わが社で靴を提供するから履いてみてほしい」と説得を試みたそうです。説得が功を奏して、翌年の1961年大阪の毎日マラソンに招待選手として出場したアベベは、同社の靴を履いて走って2位に10分以上の大差をつけてぶっちぎりで優勝したそうです。鬼塚氏は、アベベは東京オリンピックでは当然、同社のマラソンシューズを履いて走ってくれるものと思って居たところ、実際は前述の通り、裏で秘かに接触を続け多額の契約金を提示していた世界的な企業であるドイツのPUMA社の靴を履いて走ったというおまけ付きのエピソードです。

 2020年、第2回目の東京オリンピックが開催される運びになっており、多くの日本人が再度のオリンピックを目にすることが出来る事は、大きな幸せと言えます。第1回の東京オリンピックのために作られた国立競技場が、今回取り壊されて新たに近代的な競技場に生まれ変わるはずでしたが、大きな暗礁に乗り上げていることは極めて遺憾なことと思います。第1回のオリンピックの時のような国民的な行事を全国民が全力を挙げて成功に導くんだという、ひた向きさと緊張感が感じられないのは私だけでしょうか? 競技場デザインのごたごたもさることながら、オリンピックポスターの佐野研次郎氏による剽窃問題も、(何ら直接の関係はありませんが)同じ佐野一族として極めて恥ずかしい限りであります。第1回東京オリンピック当時のポスター、音楽等全てにおいて世界に誇れる最高のものであったと思います。これからでも遅くありません。第1回大会当時の、日本民族のメンツにかけてもオリンピックを成功させるんだという、日本全体のひた向きな精神を思い返して、2020年大会を成功に導いてほしいものと思います。

                       1964年第1回東京オリンピック時のポスター

            2020年第2回東京オリンピックエンブレム
              (2016年4月25日決定)

高校生時代
実家が決して裕福とは言えない経済状態だったため、高校は地元の自宅から自転車で通える極めて普通の県立高校に入学しました。一応進学クラスに属しておりましたが、果たして進学できるのか否かはっきりしませんでした。入学してすぐにブラスバンドクラブへの入部を勧誘されて、あまり深くも考えずに入部して、ホルンを担当しました。それからは授業が始まる前に朝練1時間、昼休みは昼ご飯を素早く済まして50分、放課後は全体練習とパート毎の練習に3時間を費やすのが日課となりました。家に帰るともう9時を過ぎており、風呂に入って寝るだけで精一杯の毎日でした。宿題があるときは、朝早く起きて30分ほどで済まして、朝練に出掛ける繰り返しでした。

 そのような訳で、中学3年生時に身についたコツコツ勉強する習慣はたちまちの内に崩れて、成績もかなり急降下し始めました。入学時点では1桁前半だったのが、あっという間に10番台に低下してしまいました。

 因みに2017年の文部科学省の統計数字によると、18歳年齢人口に占める大学進学率は52%、短大・専門学校進学率28%、その他20%となっており、ほぼ8割が大学等に進学しております。当方が高校を卒業した1967年には、大学進学率13%、短大・専門学校進学率5%、その他82%と、圧倒的に高校卒業後就職する方が多かった時代でした。そういう時代背景等もあり、当方は高校卒業後止むを得ず、一旦就職いたしました。 

(続きます)

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