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両運河の建設に活躍したレセップス卿の生涯を含めて
閘門式の代表的運河であるパナマ運河は、1914年に開通しております。太平洋側の平均水位は大西洋(カリブ海)側より24 cm高いだけですが、運河途中の26mの高低差を調節するために2つの人工湖(ガトゥン湖とミラフローレス湖)と6つの閘門式のプールを設ける必要がありました。そのため完成までに、海面(水平)式のスエズ運河よりは多大な年月と費用を要しております。下図左上方(ミラフローレス湖)は船よりも高くなっており、「船が階段を上る」壮大な仕掛けになっております。
閘門式運河のしくみは、まず船が最初の閘室(プール)前方の閘門(英語でLOCKと言います)直前でストップします。続いて後方の閘門が閉まると、閘門と閘門の間にできる閘室に大量の水が注水されます。水位が一つ上の閘室と同じ高さになったところで前方の閘門がオープンして、船は前方の閘室に進みます。同じことを上昇する時に3回、下降する時に3回繰り返して、待ち時間を含めて約24時間かけて反対側の大洋に到達します。
パナマ運河の最高地点は海抜26mのガトゥン湖ですから、船は閘室を1つ通過するごとに約9m上下することになります。パナマ運河では上昇、下降のために6つの閘室を通過します。更にこの閘室が往復2レーン、計12基設けられています。 即ち閘門(Lock)とは、水をせき止める単独の水門を指すのではなく、水面に高低差のある運河・放水路などで、水面の高さを調節して船を通航させる役目を持った一連の装置と言えます。
最近はエルニーニョによる干ばつのための水不足で、通行する船舶数を制限しております。パナマ運河は運河途中の26mの高低差を調節するために、海水ではなく人造湖のガトゥン湖の淡水を水源として利用しております。ガトゥン湖はもともとこの地を流れていたチャグレス川を堰き止めて造られた人造湖です。 このガトゥン湖付近で干ばつが続き、運河の閘室に注水する水が足りなくなっているためです。
スエズ運河の建設は、フランスの外交官であり実業家でもあったレセップス卿により1859年に着手され、10年後の1869年(レセップス卿64歳時)に完成しております。地中海と紅海の間には水位差が最大2.5mある他には特別な障害物がなく、閘門を持たない素掘りの運河となっております。建設費用は当初4億7,200万フラン、2015年8月の拡張工事に90億ドルかかったと言われております。
パナマ運河の建設も1881年にレセップス卿により着手されましたが、同運河建設の技術的な困難さ、マラリアや黄熱病による技術者や労働力の喪失等により、工事が予想外に長引いたため資金面で行き詰まり、8年後の1889年に工事は中断してしまいました。その15年後の1904年に米国が工事を引き継ぐ形で再開され、10年後の1914年に開通しました。レセップス卿が最初に工事に着手してから実に33年が経過しております。
米国は1904年以来、運河地帯をパナマ政府から租借してパナマ運河の運営を行って来ましたが、1999年12月31日をもってパナマに返還しました。その後パナマ運河の運営は、パナマ運河庁によって行われています。アメリカの最初の支出額は3億7,500万ドル(現在価値で1.1兆円)、2007年の拡張工事に52億5千万ドルかかったそうです。
両運河建設による物流面での世界経済への直接的なプラス効果は極めて大きく、一説には世界海運貿易総量の約二割を占めると言われております。更には地球温暖化防止のために極めて重要な二酸化炭素削減問題においても、その効果は計り知れないものがあると言えます。
1)スエズ運河
1869年開通の、地中海と紅海を結ぶ全長193㎞の代表的な海面(水平)式運河。ロンドン・アラビア海間のインド航路は、喜望峰回り航路だと2万900㎞・約24日かかりますが、スエズ運河経由だと1万2,000㎞・約14 日と40%強短縮されました。
2)パナマ運河
1914年開通の全長80㎞の代表的な閘門式運河。ニューヨーク・サンフランシスコ間の航路の場合、南アメリカ南端のホーン岬とドレーク海峡を経由すると21,000 km・約24日かかりますが、パナマ運河経由だと8,500km・約10日と60%短縮されました。
(スエズ運河の遠景)
晩年のフェルディナン・ ド・レセップス卿
(初めに)
前述の通りレセップス卿は、1869年に10年の歳月をかけてスエズ運河を完成させました。その12年後の1881年にはスエズ運河竣工の実績を買われ、パナマ運河の建設を目的としてフランスに設立されたパナマ運河建設の管理運営会社である民間のパナマ運河会社代表に就任しました。この時、卿は既に76歳に達しておりました。しかしながら工事期間の長期化等による工事資金の枯渇により同社が1889年に破産。その煽りを食ってレセップス卿自身も破産しました。
この間、レセップス卿自身に会社管理運営上の問題があったとして、当時のフランス政界を揺るがすパナマ疑獄事件に発展しました。そしてこの裁判で背任と詐欺のかどで禁固5年を宣告されました。上告により1893年最高裁法廷で無罪判決を勝ち取りましたが、晩年に至り相次ぐ不名誉な事件に巻き込まれ名声を失ったことと、精神病の発症が重なり、翌年1894年に89歳で失意のまま世を去りました。
パナマ運河は1904年、アメリ力の手で運河建設の事業が再開されてから10年後の1914年8月15日、正式に運行をはじめました。ちょうど同年8月3日はヨーロッパにおいて、第一次世界大戦が勃発した日でもあり、この新運河が連合国側の戦争遂行上の大きな戦力となったことはいうまでもありません。
1.生い立ちからスエズ運河着工まで
レセップス卿は1805年、フランスのベルサイユ近郊に外交官の父・マティユとスペイン人の母カトリーヌの間に生まれました。祖父の代から外交官を輩出した外交官一家に生まれ育ちました。2歳の頃から外国暮らしをはじめ、イタリアのリボルノでの生活は、十年間に及んでおります。フランスにもどって中学校卒業後は、役所でアルバイトをしながら学費を稼ぎ、学校を卒業したと言われております。父親の助手をしながら20歳から外交官の仕事につき、スペインのリスボン、チュニジアのチュニス、エジプトのアレキサンドリアと外交官の仕事を歴任しております。
1833年、28歳時にエジプト副領事に着任する途上、船内でコレラが発生して上陸が一時停止されました。その時偶然読んだフランス人動物学者・ジュール=セザール・サヴィニーがナポレオンへ宛てた、エジプト遠征及びスエズ運河構想に関する報告書から、スエズ運河掘削の夢を抱くようになりました。当時イギリスは、東インド会社を筆頭に東方貿易で莫大な富を得ておりました。ナポレオンはエジプト遠征時にスエズ運河を利用したインド航路の開拓の可能性を調査して、イギリスの東インド会社による東方貿易の富の独占にとって代わることを目論んでおりました。
古代より地中海と紅海には大きな水位差があると考えられていました。もし運河の開削
に成功してもこの水位差による海水の逆流で、エジプトは海の底に没するのではとの懸念
が存在しておりました。ルベールの報告書でも、「紅海の水位は地中海よりも9m高く、海
水の逆流が発生するので運河の開削は困難だが、新たな技術の導入で可能となるかもしれ
ない」となっておりました。そのため約50年後にレセップス卿がスエズ運河の開削に手を
付けるまで、運河建設の検討が行われることはありませんでした。後日確認された実際の
水位差は紅海側が最大で2.5m高いだけで、工事の進捗には何の支障もありませんでした。
レセップス卿は、28歳時にエジプト副領事に就任した時に、後にエジプトの元首となり
レセップス卿のスエズ運河掘削事業実現の後押しをしてくれたムハンマド・サイド少年の
家庭教師を務めたことがありました。卿は翌年1834年から1837年までカイロ領事に就任
しました。そのため若いころからエジプト総督家とは深いつながりがあり、この事が後に
卿がスエズ運河の開削権を独占的に取得することに繋がりました。しかしながら1848年か
ら1849年までマドリッドで大使として駐在した後は、フランスとイタリア間の政争に巻き
込まれ、未だ44歳の働き盛りの時期に外交官の職を辞して隠居中でした。
私生活ではレセップス卿は、最初の結婚で5人の子宝に恵まれましたが、内2人は早逝し
て、更に1854年には黄熱病で妻と1人の息子に先立たれ失意の時期にありました。しかし
ながらレセップス卿はこの失意の時期に、嘗てエジプト副領事着任時に船中で読んだルベ
ールのスエズ運河掘削に関する報告書を読み返すと共に、その他多くの資料を読みスエズ
運河建設の事業化構想を温めておりました。尚、スエズ運河の完成祝賀式典の直後に2度目
の結婚をして、新たに12人の子宝に恵まれております。
2.スエズ運河開通式典
1859年に着工されたスエズ運河の建設は、幾多の困難を乗り越え10年後の1869年8月
15日に完成しました。同運河開通式典は同年11月17日、各国の元首や賓客6,000人が招待
され大砲と船の汽笛が鳴りわたるなか、18日間に亘り盛大に挙行されました。フランス国
王・ナポレオン三世の皇后ユージェニーを乗せたフランス船イーグル号を先頭に、77艘も
の各国船が次々に地中海に面したポートサイドから運河に入場し、渡り初めをしました。
このスペイン王家出身の皇后ユージェニーは、レセップス卿の母方の親族で、卿の姪に
あたりました。スエズ運河の着工に先立ち彼女からナポレオン三世への口添えが行われ、
フランスのバックアップが得られ同運河着工がスムーズに進んだと言われております。
スエズ運河開通式典の祝祭用に、有名作曲家ヴェルディのエジプトを舞台とした歌劇
『アイーダ』が、新装なったカイロ・オペラハウスの杮落しに上演の予定でした。しかし
その完成は遅れて、実際に上演されたのは旧作『リゴレット』の方でした。歌劇『アイー
ダ』の実際の上演は1871年12月24日、カイロ・オペラハウスにおいてでした。このオペ
ラ第2幕2場で演奏される「凱旋行進曲」は、華やかなトランペットの音色で始まり、今日
でも最も多く演奏される曲目となっております。
3.古代エジプトのファラオ達の運河
二つの海を運河で繋げるという壮大な夢は、紀元前27~22世紀のギザの大ピラミッド
時代、古代エジプトのファラオたちの時代から存在しました。古代エジプトでは、ナイル
川の湿地帯から紅海に通じる運河が開かれ、インド洋に通ずる海上輸送路があったそうで
す。しかしファラオたちの運河は一 旦は完成するものの、その王朝の衰退や上流から運ば
れた土砂の堆積で使用不能となり、また別な運河を掘削するという繰り返しであったよう
です。
4.大航海時代
世界史の中で人類が7つの海を渡り、地球の裏側まで移動を始めたのが「大航海時代」で
す。「大航海時代」とは、15世紀半ばから17世紀半ばまでのヨーロッパ人によるアフリ
カ・アジア・アメリカ大陸への大規模な航海が行われた時代を指します。当初ヨーロッパ
ではこの時代を「地理上の発見」、「大発見時代(Age of Discovery)」と呼んで
いたそうです。1963年に岩波書店が「大航海時代叢書」を企画する際に、東京大学の名
誉教授であった増田義郎先生が、この時代を表すヨーロッパ式の呼び方に疑問を持ち、新
たに「大航海時代」と命名したそうです。以後、少なくとも日本においてはこの呼び
方が定着しております。
ポルトガルとスペインが「大航海時代」の先陣を切り、近代における大英帝国の世界陸
地と人口の約4分の1を版図に収め、「太陽の沈まぬ帝国」と称された大繁栄時代の
礎となったと言えます。因みに大英帝国の最盛期における領土は、古代ローマがヨー
ロッパ地域の殆ど、中央アジア、地中海に面したアフリカの北岸を勢力圏に収めてい
た時代の、約5倍にも上ったと言われております。
更に、この大航海時代の先駆者による航海により、地球全体の地勢や地理が次第に明ら
かになっていきました。当然のことながら、ヨーロッパを出て東回りでインドやアジア地
域に到達する場合のスエズ運河の必要性や、大西洋を横断して西回りで太平洋に至る場合
のパナマ運河の必要性は、次第に認識されていったものと思われます。その中でも次のい
くつかのトピックは、特筆に値するものと言えます。
1)マルコ・ポーロによる「東方見聞録」
イタリア人のマルコ・ポーロは日本においても有名な、「東方見聞録」の著者として古
くから知られております。ベネチアの商人の家庭に生まれたマルコ・ポーロは、大航海時
代に先立つこと約200年前の1271年に父及び伯父と一緒に東方への旅に出ました。イラ
ンからパミール高原、ゴビ砂漠を越え、1275年に元の都・上都でフビライ・ハンに拝謁。
彼の厚い信頼を得て、元の各地に使節として派遣されるなど見聞を深めることとなりまし
た。アジア各地を周遊後1295年にベネチアに戻るという、実に四半世紀にわたる大旅行と
なりました。この旅行記が「東方見聞録」として当時ヨーロッパで有名となり、冒険者た
ちの東方への雄飛の夢を育むこととなりました。因みにマルコポーロの嘗ての住居は今で
もベネチアのリアルト橋近くの路地裏に存在しており、隠れた観光名所の一つとなってお
ります。
同書の中でインドやインドネシア等の東南アジア諸国は胡椒等の香辛料の産地、日本は
「ジパング」と称され中国と並び金の一大産地として紹介されております。大航海時代に
コロンブスやマゼランは、この図書に書かれている東南アジアの香辛料や金を求めて世界
に羽ばたいて、アメリカ新大陸の発見や世界一周と言った世界史に残る偉業を達成してお
ります。
昔は肉の保存のための冷蔵・冷凍技術がなかったために、胡椒は肉の風味を高めるため
よりはむしろ防腐剤として大変な高値で取引されておりました。この時代の胡椒の価値を
表すのに「一握りの胡椒は、同じ重さの黄金に相当する」とさえ言われておりました。特
に1453年に胡椒の交易ルートを抑えていたコンスタンチノープル(現在のトルコのイスタ
ンブール)にあった東ローマ帝国が滅亡し、更に1509年にベネチアがフランスに占拠され
た後は、ヨーロッパ各国は新たな交易ルートの開拓に躍起になりました。後に「大航海時
代」と呼ばれるほど多くの冒険がこの時代に行われた背景には、中南米の金や銀のみなら
ず胡椒をはじめとした香辛料の獲得という目的がありました。
一説によると喜望峰回りのインド航路を開拓したヴァスコ・ダ・ガマの持ち帰った香辛
料は、仕入値の60倍以上の値段で売ることが出来たとか、マゼランがモルッカ諸島で積み
込んだ香辛料はマゼラン艦隊の派遣費用をはるかに上回る利益が出たと言われています。
2)ポルトガルによる喜望峰の発見
1488年ポルトガル人のバルトロメウ・ディアスがヨーロッパ人として初めて到達
したアフリカ大陸南端の岬が喜望峰です。ちなみに喜望峰はアフリカ大陸の最南端と
勘違いされがちですが、現在の南アフリカ共和国の首都でありテーブルマウンテンで
有名なケープタウンから約50km南のケープ半島の最西端にあり、最南端ではあり
ません。アフリカ大陸の最南端は、喜望峰から更に約150キロ東南東にあるアグラス
岬になります。ディアスは喜望峰に到達するまで12日間も嵐に翻弄されたため、当
初この岬を「嵐の岬」と命名したそうです。しかし時のポルトガル国王・ジョアン2
世は、この岬から更に東に進めば富と希望にあふれたインドに至る岬であるとして、
ポルトガル語で「Cabo da Boa Esperanca」(希望の岬)と改名したそうです。以
後英語では「Cape of Good Hope」、日本語訳では「希望の岬」となるべきとこ
ろ、どういうわけか喜望峰と訳されております。
一般的に喜望峰はヴァスコ・ダ・ガマが発見したとされております。彼は1498年
5月に東回りでインドのカリカット(現在のコジコーデ)に到達してインド航路の開
拓に成功しましたが、その途次、1497年11月に喜望峰を通過しただけのようです。
3)コロンブスのアメリカ大陸発見
1492年10月12日イタリア人のクリストファー・コロンブスが、スペインのパロス港か
らサンタ・マリア号を初め3艘の船・約90人でインドを目指して出航しました。上記のマ
ルコ・ポーロ「東方見聞録」に出てくる東南アジアの香辛料やジパングの黄金を求めての
旅でした。 ヨーロッパから大西洋を横断し、アメリカ大陸周辺の島であるサン・サルバド
ル島に到達しました。コロンブスは当初、アメリカ大陸の存在を知らず、西回りで航海す
れば、インドに到達すると考えておりました。アメリカ原住民は後にインディアンと呼ば
れておりますが、コロンブスはアメリカ大陸を発見後、当該大陸を終生インドであると考
え、その原住民をインディアン(インド人)と呼んでおりました。コロンブス自身の認識
はどうあれ、彼のアメリカ大陸周辺諸島への到達は、新世界の発見として、彼は長らく
「アメリカ大陸の発見者」と呼ばれておりました。
これに対して、イタリアの地理学者・天文学者のアメリゴ・ヴェスプッチは、1497年か
ら1502年まで3回にわたり新大陸の調査をして、その調査結果を発表しております。この
事実をもってアメリゴ・ヴェスプッチをアメリカ大陸の発見者として、新大陸は彼の名前
を取ってアメリカ大陸と命名されております。
人類発祥の起源は、今から約20万年前にアフリカ北部に誕生したホモ・サピエンスとも
言われており、中東やユーラシア大陸を経て世界中に広まっていったと考えられておりま
す。因みにホモ・サピエンスとは、「知恵のある人」を意味するそうです。
ユーラシア大陸とアメリカ大陸を隔てるベーリング海峡は氷河時代には陸続きであり、
ユーラシア大陸のモンゴロイドはこの地を通って北アメリカに渡り、遂には南米の南端に
まで到達したと言われております。もしそうであれば、厳密な意味で最初にアメリカ大陸
を発見したのは、このユーラシア大陸からアメリカ大陸に渡ったモンゴロイドの先祖であ
ったと言えます。
またコロンブスがアメリカ大陸に到達する以前から、アメリカ大陸の存在について触れ
た資料がいくつか存在しております。例えば北欧のバイキングの到達を示す史跡とか、イ
タリアのジェノバの船乗りが残した記録等です。そういう意味では、コロンブスによるア
メリカ大陸の発見とは、正確には「15世紀におけるヨーロッパ人によるアメリカ大陸の発
見」と呼ぶべきものだったと言えます。
4)マゼランの世界一周
大航海時代を代表する航海者の一人であるポルトガル人のフェルディナンド・マゼラン
は、1519年にスペイン王の援助を受けて5艘・270人の船団を率いてスペイン・セビリア
から西回りでマラッカ諸島の香辛料を求め船出しました。1520年に大西洋と太平洋の分岐
点となる、彼の名前に因んで命名された南アメリカ大陸南端のマゼラン海峡に到達しま
した。マゼランはヨーロッパ人として初めて太平洋を横断し、1521年にフィリピンに
到達しました。彼はこの地で、原住民をキリスト教徒に改宗させるべく活動中に、原住民
の反乱に会い命を落としております。尚、フィリピンと言う地名は、後のスペイン国王・
フェリぺ2世にちなんで、この地が「フィリピナス諸島」と呼ばれたことに由来します。
彼の遺志を継いだ船団は1522年にわずか1艘・18人だけがスペインに帰着しました。マ
ゼランによる初めての太平洋を横断した世界一周航海の成功により、地球の概略の大きさ
が明らかになり、本格的な地球規模の大航海時代の幕が開けたと言えます。
言うまでもなく太平洋は英語の『Pacific Ocean』、大西洋は『Atlantic Ocean』
を指す日本語訳ですが、同じ海の名前であるのに両者の漢字は異なります。太平洋は
『太』、大西洋は『大』と書きます。
太平洋はマゼランが“平和で穏やかな海”という意味を込めて、『Pacific Ocean』
と名付けたことに由来します。『Pacific』には、世の中が穏やかなことを表す『太
平』の意味もあるそうです。そこで『Pacific Ocean』を日本語に訳すときに太平洋
としたそうです。
それに対して大西洋はギリシャ神話の巨人の神様、アトラスから“アトラスの海”、
または伝説上の王国アトランティスから、“アトランティスの海”が語源とされていま
す。つまり“アトラスの海”や“アトランティスの海”とは、ヨーロッパ大陸の西にある
大きな海という意味で、大西洋と訳されたそうです。
1)工事資金の枯渇
レセップス卿がスエズ運河を完成させた6年後の1875年、パリ地理学協会の会合でアメリカの運河問題が討議されました。その後同協会は、中央アメリカの地峡の地勢が全くわかっていないことに気づき、その調査のための委員会を設けました。この委員会では、スエズ運河建設の立役者であるレセップス卿を委員長に選びました。従って、フランスを中心としたプロジェクトであり、パナマ運河の存在する中北米は全く関与していませんでした。
パナマ運河会社設立当初に定められた資本は、あくまでもレセップス卿のスエズ運河工事の経験に基づく推定値でしかありませんでした。スエズ運河の総延長は193㎞であったのに対してパナマ運河はその約4割の80㎞に過ぎません。距離数だけからいえば、パナマ運河の工事費用がスエズ運河に比較してそんなに増加するとは考えられません。
問題は、海抜100m地点にあった難所クレブラ・カットの掘削が困難を極めたことと、下記記載の「蚊が媒介する風土病の蔓延」、「運河掘削工法の変更」による工事期間の長期化による工事資金の枯渇にありました。レセップス卿は、フランス国内でパナマ運河くじを発売して、パナマ運河建設資金の不足を補おうとしましたが、十分な資金を集めるには至りませんでした。
2)蚊が媒介する風土病の蔓延
蚊が媒介するマラリアや黄熱病の蔓延による多くの技術者や労働者の死亡により、工事は大幅に遅れました。レセップス卿が工事を指揮していた8年間だけで、これらの風土病による死者が2.2万人に達したと言われております。当時はこれらの風土病の原因が未だ解明されておりませんでした。但し、アメリカ主導による工事が開始された1904年当時は病原体までは発見されておりませんでしたが、これらの風土病は蚊が媒介するものであることが経験的に解っておりました。そのため蚊撲滅のための専門家が2年間に亘り専従して、漸く当該風土病が退治され工事は順調に進捗しました。それでもアメリカが建設に従事していた10年間で、病気や事故による総死者数は5,609人に達したそうです。
特に黄熱病については、ロックフェラー医学研究所研究員としてガーナで当該病原体発見の研究に従事していた野口英世博士が同病に感染して、1928年5月に同地で亡くなっております。従って、パナマ運河が開通した1914年当時は未だ、黄熱病の病原体は発見されていませんでした。因みに野口英世博士は、日本が生んだ世界的な細菌学者としてノーベル生理学・医学賞の候補に三度あげられております。
(追加情報)
梅毒は1492年に新大陸アメリカを発見したコロンブス探検隊が、ヨーロッパに持ち帰ったと言われております。同探検隊は三艘の船で1492年にスペインのパロス港を出港して、2カ月後にアメリカ大陸を発見しました。バハマ諸島の島々を巡り現地住民との交流で同病に感染し、翌年イタリア帰国時に同病原菌を持ち帰りヨーロッパ中に広まったとする説(注)と、昔からヨーロッパに存在していたとする説があります。
(注)当説についてはアメリカの熱帯医学権威者、Robert・S・Desowitz博士が、原題:Who Gave Pinta to the Santa Maria?と題して詳述しております。日本語版は「コロンブスが持ち帰った病気」と題し1999年㈱翔泳社初版で発行されております。
日本でも1512年ごろには、京都や大阪で唐瘡、琉球瘡と呼ばれた梅毒への感染事例が記録されております。感染ルートはいずれも、日本の南方地域を経由して日本との交易が盛んだった中国と考えられ、ヨーロッパから伝来したものと推定されます。
3)感染症を引き起こす病原体
感染症を引き起こす主な病原体は細菌、ウイルス、真菌(カビ)です。この内細菌は個体が比較的大きく、単一の細胞を持つ生物として細胞分裂によって増殖します。
その大きさは約1μm(1mmの1/1,000)~10μmで、光学顕微鏡で見ることができます。
これに対してウイルスは極めて微小で生物と非生物の中間の存在で、自分で細胞を持たず 他の生物の細胞に入り込み自らのコピーを作り増殖します。その大きさは約1nm(1µmの1,000分の1)~10nmで、電子顕微鏡を使わなければ捉えることが出来ません。
梅毒の病原体は、梅毒スぺロヘータという細菌です。同細菌は直径0.1~0.2μm、長さ6~20μmのらせん状の細菌で、光学顕微鏡で見ることができます。野口博士の名前は同細菌の発見で、世界的に広く知られておりました。
黄熱病についても同博士が病原体を発見したとして世界的に高い評価を受けておりました。しかしながらその後の研究で、同博士が黄熱病の病原体の分離に利用した検体は黄熱病と共にワイル病にも感染しており、ワイル病の病原体を黄熱病の病原体と誤って同定したと考えられております。ワイル病の病原体は細菌で光学顕微鏡で捉えることが出来たのに対して、黄熱病の病原体はウイルスであり電子顕微鏡でなければ捉えることが出来ません。
電子顕微鏡は、1930年代前半にドイツのエルンスト・ルスカとマックス・クノルによって発明され、1939年にはシーメンス社によって商用開発が開始されました。野口博士がエクアドルで黄熱病の研究に従事した1918年当時及びガーナで同研究に従事した1926年当時には、未だ電子顕微鏡は発明されておりません。従って、黄熱病の病原体を発見することは極めて困難であったと言えます。
因みに黄熱病の病原体は、野口博士と同じくロックフェラー医学研究所に所属し、同時期にガーナで同病原体について研究していた英国人のエイドリアン・ストークスたちが偶然分離に成功し、同ワクチンが開発され今も世界中で使われております。尚、エイドリアン・ストークスは、野口博士が黄熱病に感染して死亡した前年、1927年に同じく黄熱病に感染して死去しております。
4)運河掘削工法の変更
ㇾセップス卿は、スエズ運河の建設を海面(水平)式の素掘り運河の建設で成功したため、パナマ運河でも同方式の採用でスタートしました。しかし運河途中の高低差のある難所を超えるには、閘門式の運河でなければならず、工事の途中で工法を転換せざるを得ず多くの時間と資金の無駄が発生しました。
この変更に際し、海抜100mにも達する難所のクレブラ・カットの開削にてこずったこともあり、レセップス卿が当初見積もった土砂掘削量が5,400万㎥だったのに対して、わずか総延長80㎞しかないパナマ運河のフランスとアメリカの合計掘削量は3.2億㎥と、約6倍の多さに達しております。スエズ運河の総延長は193㎞で土砂採掘量は7,500万㎥と言われておりますが、実にその4.2倍の掘削量となりました。難所のクレブラ・カットだけで2億㎥の多さに達しております。
この事が工事期間の長期化につながり、パナマ運河の工事資金枯渇を来たしました。この時に閘門の工事技術者としてフランスから、パリ万博の目玉として建てられたエッフェル塔を造ったエッフェルが招聘されております。
5)アメリカの不参加
スエズ運河がフランス人であるレセップス卿主導の事業として成功したために、パナマ運河でもレセップス卿主導で工事が開始されました。1881年パナマ運河会社を設立し、6億1,500万フランの資本を投じて事業が開始されました。
この間、当のアメリカは南北戦争等の国内的混乱でパナマ運河の建設には全くノータッチでした。その後国内の諸問題を解決したアメリカは、時代の要請である東海岸から西海岸への最短ルートによる貨物輸送の実現を目指して、1904年に漸く工事に着手しました。レセップス卿による工事中断から15年が経過しておりました。
6)アメリカによる豊富な資金と先端技術の投入
レセップス卿によるスエズ運河が完成したのは1869年、64歳の時でした。その後、米国がパナマ運河建設に着手するまでは35年も経過しております。極めて難工事であった割には、資金量が豊富で最新の土木技術を駆使したアメリカが着手した10年後の1914年に完成しております。アメリカが工事に着手した最大のプラス面と言えます。
ダイナマイトの原料となるニトログリセリンは1846年に発見され、1866年にノーベル賞の創設者として有名なアルフレッド・ノーベルにより実用化されました。スエズ運河建設当時には使用されませんでしたが、アメリカが引き継いでからのパナマ運河難所の岩盤破壊に大きな威力を発揮しました。
1)レセップス卿は元フランスの外交官でしたが、40代の半ばで公職を追われ、その後
夫人と息子に先立たれ失意の時期がありました。その彼が54歳時に奮起してスエズ運
河の建設に乗り出し、フランスのライバルであったイギリスの抵抗などにあいながら
も屈せず、なんと10年後の64歳時にスエズ運河開通を成し遂げたのです。
2)さらに驚くべきは、レセップス卿はスエズ運河開通の10年後の74歳時に今度はパ
ナマ運河の建設に着手しました。しかしながら前述のさまざまな事情によりこの計画
は成功せず、1904年にアメリカに引き継がれて1914年に完成しております。
3)レセップス卿について驚かされることがもう1つ。スエズ運河が開通した約1週間
後の64歳時に、何と自分の孫と言っても通用するほどの21歳の女性と再婚し、以後
男の子6人、女の子6人合計12人もの子宝に恵まれた事です。2023年のOECD先進
国の合計特殊出生率は軒並み1台です。日本は1.20、米国は1.62、フランスは1.68、
韓国に至っては0.72と国の存亡の危機に瀕しております。当時は現在よりも合計特殊
出生率がかなり高かったとは言いながら、12人の子供と言うのは、極めて異例と言え
ます。
我々凡人はどうしてもこのような話題にだけ目が行きがちですが、彼が晩年パナマ
運河の建設に関係して被った多くの不幸を目にするとき、人間の人生は案外平等なの
かなと感じるところではあります。
1.スエズ運河通航船舶数の減少
1)現況(2024年5月17日カイロ発)
エジプトの主要な外貨収入源であるスエズ運河の通航船舶数が、紅海におけるイエ
メンのフーシ派の商船攻撃の影響で、2024年5月初めの1週間は前年同期の約3分の1
に落ち込んでおります。当然船舶の通航料収入もこの比率で落ち込んでおります。
(スエズ運河を通過したタンカーと貨物船の1日当たり平均船舶数)
| 2024年(隻) | 2023年(隻) | 対前年% |
1月平均 | 45.4 | 71.3 | 63.7 |
2月平均 | 38.6 | 69.6 | 55.5 |
3月平均 | 34.2 | 72.1 | 47.4 |
4月平均 | 35.4 | 77.9 | 45.4 |
5月1~7日平均 | 30.3 | 81.1 | 37.4 |
同運河の1日当たりの通航船舶数は月を追う毎に減少しております。新型コロナウイルス禍による混乱で通航量が落ち込んだ2020年6月でも1日平均47.0隻でした。通航料金は船舶と積荷の種類が反映されたスエズ運河トン数(SCNT)などに応じて算出されます。通航船舶数が減少しているので通航料収入は、それに比例して減少しております。
エジプト中央銀行(CBE)によると、2023年7月~2023年12月の通航料収入は48億ドルと好調だったことから、フーシ派による商船攻撃がなければ、年間ベースで過去最高の収入が実現されていたはずです。同期間の供給側実質GDP成長率3.6%の内、観光業の寄与度が0.7ポイント、卸売・小売業が0.6ポイント、スエズ運河通航料収入が0.3ポイントを占めていたことから、通航料収入の減少幅が大きければエジプトGDP成長率の減速要因になります。
フーシ派による攻撃の被害を避けるために、商船の多くが喜望峰へ迂回しております。ポートウォッチによると、スエズ運河とは逆に喜望峰を通過するタンカーと貨物船の2024年4月の1日当たり平均通航船舶数は81.9隻と、前年同月の45.2隻から1.8倍に増加しております。
2)当問題の発端
2023年11月19日、「反イスラエル」を掲げるイエメンの武装組織フーシ派は、日本郵船がチャーターして運航する自動車運搬船「ギャラクシー・リーダー」を紅海で拿捕しました。中東メディアは、この船がイスラエル企業が関係する船だとしておりますが、イスラエル軍は「イスラエル企業の船ではなく、イスラエル人も乗っていない」と否定しております。当該船舶が拿捕された紅海南部は、アジアと欧州をむすぶスエズ運河に至る海運の要衝です。年間約1万5,000隻が通過するスエズ運河の海運が滞れば、欧州と取引する日本企業への影響も大きく、海運業界には衝撃が広がっております。パレスチナ自治区であるガザ地区を巡る情勢が、世界物流のリスクになることが浮き彫りになりました。
拘束された乗組員はウクライナやブルガリアの多国籍の乗組員であり、日本人は乗っていないとのことです。上記自動車運搬船の拿捕に引き続き、多くの船舶が拿捕・攻撃を受け、海運各社はスエズ運河経由を避け、南アの喜望峰経由の物流に切替える動きに拍車をかけております。
3)フーシ派による船舶攻撃の概況
・2023年11月、フーシ派による同地区での最初の船舶攻撃となった上記記載の日本郵船チ
ャーターの自動車運搬船の拿捕
・2023年11月、トルコ企業オラス海運の貨物船がミサイル攻撃を受ける
・2024年1月、フーシ派による攻撃により、紅海航路から喜望峰迂回の動きが拡大
・2024年1月26日、紅海周辺、アデン湾で石油タンカーがミサイル攻撃を受ける
・2024年3月、フーシ派が攻撃した貨物船が沈没
・2024年3月6日、紅海で商船にミサイル攻撃を行い、乗組員3人が死亡。これはフーシ派が
同海域で船舶攻撃を開始してから死者が報告される初めてのケース
4)最近の状況
2025年1月22日イエメンの親イラン武装組織フーシ派は、2023年11月に拿捕していた
上記自動車運搬船「ギャラクシー・リーダー」の乗組員25人を解放しております。解放され
たのは多国籍の乗組員25人で、日本人は乗っておりません。25人は交渉を仲介したオマーン
に引き渡されました。船舶については拿捕されたままです。
ガザ地区では2025年1月19日、パレスチナ・ハマスとイスラエルの間で42日間の停戦が発
効しております。フーシ派幹部は、「ギャラクシー・リーダー」の乗組員の解放は、パレス
チナ自治区ガザ地区で停戦が発効したことを受けた措置としております。
停戦発効を受けてガザ地区では2025年1月19日午後ハマスは人質の女性3人を、同月25日
には2023年10月の越境攻撃で拉致したイスラエル軍の女性兵士4人を、更に同月30日
には8人の人質を解放しました。
イスラエル側も1月20日未明パレスチナ人受刑者90人を、同月25日には収監していた人質
約200人を、更に1月30日にはパレスチナ人受刑者110人を解放しております。
当該人質解放の動きが、イスラエルとパレスチナの1日も早い紛争解決の糸口となる事を期
待したいと思います。
2.パナマ運河通航船舶数の減少
1)通航船舶数の現状
2024年7月4日現在、1日約32隻の船舶が、パナマ運河経由で世界の海上輸送貨物の
約4%(重量ベース)を輸送しております。年間では約2億トンの貨物が、約1万4千隻
の船舶により運河を経由して輸送されております。2022年の運河を経由する貨物の発
地別利用国順位は、米国、中国、日本、チリ、韓国の順です。
東アジアからアメリカ向けの本船の約半数がパナマ運河を通過します。アメリカ向
けは産業製品や機械製品、アジア向けは農産品や鉱石、LNGといった原材料が目立ちます。年間の通航量は約14,000隻で、コンテナ船が約40%、乾燥原料船が約20%、自動車運搬船が約15%と続きます。
2)ガトゥン湖が干上がる!?
パナマ運河における船舶の上昇・下降には大量の水の閘室への注水・排出が必要と
され、その水の供給元が海抜26mにあるガトゥン湖です。パナマ運河の航路・閘室へ
の水の供給はもとより、地元パナマ市への生活用水・灌漑用水、水力発電の水源として
も用いられる重要な湖です。しかし、エルニーニョ現象の影響もありパナマは2024年
4月現在、100年に1度とも言われる深刻な干ばつに見舞われており、ガトゥン湖は通
常よりも1.8m程度水位が低下しております。
水資源確保のために新たな人造湖を造る案も出ておりますが、そうすれば地元原住民
であるインディオの70近くの集落が水没するために、同地域原住民の同意は得られて
おりません。また、パナマ運河の通航には1隻当り20万tの水が必要とされ、しかもこ
の水は淡水です。貴重な水資源の確保のためにも、この淡水を船舶の通航時に垂れ流し
にするのではなく、有効利用・再利用が是非とも必要とされます。前述の通りパナマ運
河の最高地点であるガトゥン湖の海抜は26mであり、船舶の通航に使用された淡水を
このガトゥン湖まで還流できれば再利用が可能となります。これまでも部分的な有効利
用は行われていたようですが、より一層の有効利用が必要です。今日の技術をもってす
れば、低コストでパナマ運河通航のための淡水の更なる有効利用が可能になると思われ
ます。
当局は通航制限を導入しているため、滞船が発生しております。昨年の1日当たりの
平均通航数は40隻でしたが、現在は32隻にまで減少しております。2024年 2月上旬、
運河の入口にあたる太平洋側・大西洋側ではともに、通航制限によって順番を待つ船が
数多く停泊していました。運河の水不足のせいで35~40日待たされた船もあったそう
です。そのためコストアップにはなるが、貨物輸送をかつてカリフォルニアのゴールド
ラッシュの頃に建設されたパナマ横断鉄道や陸路によるトラック輸送に変更する会社が
増えております。但し、スエズ運河とは異なり、パナマ運河の通航料を引上げているた
めに、同運河の収益は過去最高となっているそうです。
紅海周辺での船舶攻撃によるスエズ運河の通航制限もあり、まさにダブルパンチと言
えます。以上の諸事情により世界のコンテナ船運賃は急騰しており、正常時の1.8倍に
まで高騰しております。
3)パナマ運河庁、7月4日公表記事
パナマ運河庁のホームページによると、現在ガトゥン湖の水位回復は順調に進んでい
るそうです。しかも今後の運河周辺地域での降水はある程度期待できるので、希望的観
測ではあるが、7月以降の通航規制は段階的に緩和できると発表しております。
(パナマ運河通過実績とパナマ運河庁公表の規制緩和のスケジュール)
通過隻数/日 | 渇水前 | 23/12 | 24/1~ | 7/4現在 | 7/11~ | 7/22~ | 8/5~ |
パナマックス | 36 | 22 | 22 | 24 | 24 | 25 | 25 |
ネオパナマックス | 9 | 9 | 7 | 8 | 9 | 9 | 10 |
計 | 45 | 31 | 29 | 32 | 33 | 34 | 35 |
渇水前比(%) | - | 69 | 64 | 71 | 73 | 76 | 78 |
4)パナマ運河の増設
パナマ運河を通航できる最大船型はパナマックスと呼ばれていましたが、2016年6
月には9年の歳月をかけてネオパナマックス閘門を開通させました。これにより世界
の船舶の98%が通行可能となりました。
通過サイズ(m) | 長さ | 幅 | 喫水(深さ) | コンテナ船 | バラ積船 |
パナマックス | 294 | 32 | 12 | 最大5,000TEU | 80,000T |
ネオパナマックス | 366 | 49 | 15 | 〃14,000TEU | 170,000T |
1.24倍 | 1.53倍 | 1.25倍 | 2.8倍 | 2.1倍 |
以上
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